扇形機関庫探訪(梅小路蒸気機関車館再訪③)

<4月11日>

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さて、旧二条駅舎の資料展示館を出て、向かいの扇形機関庫へ入る。
勝手知ったるなんとかだが、今日は寒いな。
一旦転車台側へ出ると、機関庫外の側線に二機が駐機されていた。

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ハチロク(8620形)と、その向こうのデカイのは・・・
あれ?シールドビーム(副灯)?
えーーー、C62(2号機)?
公式サイトでは、明日までSLスチーム号の牽引機はC62で、あさってからC61のハズだったのに・・・
じゃあ、今日はデゴイチ(D51 200)かな?
まぁ、いいか。

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まずはスナップから。

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左からC11(シーチョンチョン)、9600(キューロク)、B20。
そして、B20の後ろには・・・

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1070形式1080号機
明治時代に英国から輸入された蒸気機関車。
元々はテンダー機で、東海道本線の急行旅客列車を牽引していたそうだが、大正末期に浜松工場で現在の姿であるタンク機に改造されたのだそうだ。

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続いて、左からD51(デゴイチ)、C58(シゴハチ)、D50(デゴマル)、D52(デゴニ)。

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菊の紋章が付いたのがC58で、上記に続いてC59、C53、C51の順。
何れも劣らぬ歴代の超特急燕の牽引機たち。
鉄道省、栄光の罐。
では、これよりお約束の正面撃ち。

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D51形1号機
日本を代表する貨物用蒸気機関車、ご存知デゴイチ栄光のトップナンバー。
初期型の特徴として、煙突から蒸気溜め、砂箱にかけて一体型カバーで覆われていて、いわゆるナメクジと呼ばれているグループ。
かの島秀雄氏による設計。
NHKで観た奥羽本線矢立峠での三十連の映像が鮮烈だったが、最後は山陰の方で引退したと思った。

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C58形1号機
亜幹線向け旅客・貨物兼用機。
山口線に『SLやまぐち号』が走り始めた当初、予備機として実際に牽引していた。
C57 1との重連もあったんでなかったっけかな?
このお召し装飾は如何なものかと・・・
秩父鉄道の363号機や大宮で復活整備中の239号機の始祖。
かつて、国鉄二俣線を走っており現在の天竜二俣駅前にも静態保存されているなど、わたしにとっては身近な蒸機の1つ。

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D50形140号機
大正末期から昭和初期にかけて量産された貨物用蒸機。
後述の9600形(キューロク)の後継機。

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D52形468号機
戦時設計・製造の日本最強・最大の貨物用蒸機。
先輩のD51は1,000tの牽引性能を誇った高性能機であったが、戦局の悪化により石炭など物資の海上輸送が困難となり(米国艦艇や航空機の攻撃による)、1列車あたりの牽引定数を1,200tに向上させるために開発された。
しかしながら、戦時中の劣悪材の使用や、製造インフラの疲弊もあり、本来あるべき姿で竣工できてはなかったのでは?と考えられている。
汽罐破裂(ボイラー爆発)という不名誉な事故も発生させたそうが、戦後の体質改善によりボイラー置換が実施され、本来の性能を発揮するハズであったが、既に時勢は無煙化へと向かっていた。
この罐はラストナンバー(最終号機)。

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C59形式164号機
急行旅客用蒸気機関車(急客機)の決定版。
後述のC53の後継機。
運転や保守に高い技量を求められたC53に対して、課題を克服して設計・製造された完成度の高い名機。
戦前の超特急燕から戦後復活したへいわ以降、数々の特別急行牽引の任に就いた。
動機はC62と共に呉線で急行『安芸』(10系A、B寝台、食堂車が連結されていた)をヘッドマークを付けて牽
引していた姿を蒸気機関車大百科の巻頭カラー写真で見て、子供ながらに大層感動したものだ。

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C53形45号機
戦前を代表する急客機。
アメリカより輸入したC52形式を参考に開発された本邦唯一の三気筒(3シリンダー)大型急客機。
動輪の外側二面をコンロッドで繋ぎ、それぞれにシリンダーを配する二気筒(2シリンダー)が一般的姿だが、このC53形式は左右動輪の間(車軸)にもシリンダーとコンロッドを配することでより強力な回転力(=走行速度)を得ようと、当時の高速化手法を取り入れたと考えられる。
ドイツ国鉄の05形蒸気機関車等が採用していた構造。
ただ欧米の広軌や標準軌に対し、日本の鉄道省は狭軌だった=左右動輪間の幅が狭かった。
ゆえに第三シリンダーを配置するのは構造的に無理があったのでは?とも言われている。
また、盟友の43号機は試験的に当時の流行だった流線型の車体に改造されたことでも有名。
空気抵抗を低減するため、ボイラーからテンダーまで連続したデザインと、動輪を覆うスカートの流麗な姿は、後世の500系新幹線電車の300km/h運転(350km/h営業運転を目標に開発)で開花したのだと考えたい。
超特急燕の先頭に立っていた姿に想いを馳せるも、時速100km/h程度では差程の効果は得られずとして、日本が戦時体制へと向かう中、特別急行も廃止となり同機は通常の姿に変えられてしまった。
本機は引退後、国鉄鷹取工場(今は無い)にて整備、鷹取-吹田操車場間を走行した後、交通科学館(現:交通科学博物館)にて静態保存。
40年前の梅小路蒸機機関車館の設立と共に梅小路へやってきた。
タイヤ厚の薄いスポーク動輪を有する端正な姿に戦前の優等列車牽引機の気品を感じさせる。
わたしが大好きな機関車の一台。

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C51形239号機
かの超特急燕を牽引した日本を代表する急客機。
大正末期から昭和初期に製造された、完成度の高かった旅客機。
東京から神戸まで10時間(当時丹那トンネルは無く、現在の御殿場線が東海道本線だった)で結んだ超特急燕。
通常の列車は既に電化されていた東京から国府津までは電気機関車が牽引。
国府津から先は非電化なので、全ての列車が国府津駅で電気機関車から蒸気機関車に付け替えていたのだが、その停車時間さえも削ろうと、始発の東京駅からこのC51が牽引していたという。
父親が存命の頃、開館して間もない鉄道博物館へ息子とわたしを招待してくれたことが有った。
その際、展示されている御料車の先頭に立っていたC51の前に来たとき、わたしにカメラを手渡して、一緒に撮ってくれと言った。
国鉄時代からJRに関わる仕事を受けていた父親ではあったが、わたしと違って鉄ではない。
そんな父親がC51を指名して記念撮影とは意外に思ったが、昭和15年生まれの父。
昔は小学校国語の教科書には鉄道の事が数多く書かれていたそうだが、戦前から使い廻された教科書(検閲の炭塗りこそあれど)には超特急燕としてC51が描かれていたのかも。
直接聴いたわけでは無いが、後になって読んだ宮脇俊三著『時刻表昭和史』の中に、父より14歳年長の著者の記述の中にそんなエピソードが描かれている。

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転車台を挟んだ向こうに、整備を終えたSLスチーム号が待機していた。

④へ続く

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