広島平和記念資料館を見学

<8月23日>

被爆体験者の方から講和を頂戴した。
歳月を経ると共に体験を語る人も減っているという。
が、被爆体験者の殆どは、自らが直面したことについて口を開いてはくれないという。
思い出すのが堪え難い、凄惨な光景であったり、自らが助かったことに対する自責の念であったり。
直接聴くことで、改めて知ることが出来た、と思う。

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資料館を見学するが、もの凄い混雑。
老若男女、地域を問わずありとあらゆる人がここに集ったかのようだ。

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展示の仕方にも賛否あって今の形となっているそうだ。
近く改装が始まるそうだが、後世には真実をありのまま伝えていく方がよいのでは。
人の数だけ解釈はあるだろうが、真実は一つしかないのだから。
被爆体験者の方が最後に語った、平和記念日に各国の要人が残したメッセージが、資料館出口に展示されていた。
その中で村山富市総理大臣(当時)、ドイツ連邦のワイツゼッカー前大統領(当時)のメッセージが印象に残っているとのことだったが、拝見して、なるほどと思った。

資料館を出たあと、同行者の1人が言ったが、自分たちが生まれた(1960年代)20年前の出来事だけど、今現在から20年前と言ったら、会社に入った頃だ。
会社入ったのはついこの間だと思って、早20年が過ぎた。
そう、わたしが生まれた時代というのは、決して戦争から遠く離れてはいなかったのだ。

わたしは父親が東京、母親が静岡でそれぞれ空襲に遭っている、と聴いた。
共に焼け出され、住処と財産(あったかどうか)を失い、東京市江東区の父方一家は、親戚縁者を頼って静岡県藤枝に移り住んだ。
両親共に4,5歳の時だから、今の娘と同じ年恰好の頃ということだ。
六男だった父は焼夷弾が降ってくる中を親兄弟と共に大八車を押して逃げたことを覚えていると言い、逃げる途上で、二人の妹(わたしの叔母)と祖母(わたしの曾祖母)を亡くしたそうだ。
原爆はたった一発という破壊力の大きさから、その悲惨さが取り沙汰されがちだが、空襲・空爆に遭った場所はどこも同じように凄惨だったはず。
子供の時分、終戦の日の頃になると、いつも両親から聞かされた話だが、この歳になって漸く理解できるようになった。
断片的な意見だけではなく、様々な意見を広く見聞きする姿勢を大切にしたいと思う。

だが、自国の兵士を守るために、敵国の非戦闘員が犠牲になってもいい、ましてやそれが正義だなどいう発想に至る人間の思考が理解できない。
今も地球上のどこかしらで、戦争が行われているのだ。

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